どうしてもどうしても言えない、
言葉という形にしてはいけない一言がある。
真実本当、間違いなくの誠実な想いだが、
それと同時に、叶うはずのない望み。
むしろ果たされてはならぬものだということもまた、
重々判っているものだから。
言葉にはせず、戒めという名の枷として、
胸の奥底へ封じ続けているのだけれど。
―― それでも…もしやして。
未練がましい小者の哀しさ、
何かしら匂わすような、物欲しそうな言いようを
これまで交わして来た言葉の中へ、含ませたことがあったかも。
それとも、浅ましい人性ゆえに、
慕わしいとすがるよな眼差し、我知らず向けていたことがあったかも。
それでなくとも懐ろの尋深い御主のことだから、
わざわざ あからさまに示さずとも
もう既にその心掌へ拾い上げておいでかも知れない。
それだのに、それだから?
時折、すっかり忘れた頃合いに、
わたしの声での言を聞いてみたいなどと、
思わぬ駄々をこねられることがあり。
ここ数日も、またぞろそれが ぶり返しておいで。
『秘してこそ華と言うが、
今だけは儂の心持ちを汲んでくれぬか』
穏やかな眼差しのまま、そんな悪ふざけを口にされ、
あくまでも御自身からの頼みを聞いてくれぬか?という形で、
わざわざ わたしなぞへと手を延べて下さる、優しいお人。
お気に留めなぞせず、捨て置いて下さいませと、
何とか苦笑って見せたとて。
聞こえぬぞと微笑って流してしまわれて、
深色の眸でただただ見つめて下さるばかり…。
―― ああ、そろそろ日付が変わるなと気がついた。
◇ ◇ ◇
この時期の勤め人には ほぼ付き物な、いわゆる“年度末大決算に向けての収支報告にまつわる、大慌てな財務処理(こらこら)”などには、一切無縁の部署なのか。四月を目前に控えたここ数日は、ともすれば日頃より余裕の、早めの時間帯に帰宅している勘兵衛であり。小腹が空いたままの身を、励ましもって真っ直ぐ帰れば。春野菜の天麩羅、神戸牛の牛鍋。エンドウの豆ご飯にウドの三杯酢、サワラの塩焼き、アサリの酒蒸し。キビナゴの釜揚げを軽く炙ってポン酢であっさりととか、新タマネギを一層ごとピンポン玉を割ったよな半球に剥いての肉詰め照り焼き風にしたのとか。さりげなく手の込んだ温かな夕餉が、飛び切りの笑顔と共にお出迎えしてくれるのが嬉しいばかり。いつもは気丈な彼だのに、そこはかとなく“お帰りを待ち兼ねておりました”という態度がほのかに覗けるのもまた、可愛らしいことよとこちらの心持ちを擽ってくれている。というのが、
「久蔵からの電話などはないのか?」
「向こうの夕食どきにかかって来ますよ?」
みっちりとスケジュールが詰まってるらしくて、そのくらいの頃合いしか自由が利かないらしいです、と。こちらはこちらで遅いめの夕ごはんのお給仕をしつつ、青玻璃の瞳をやんわりと細めて、白皙美貌の青年が微笑って応じる。先週末から始まっての全日程6日ほどという外泊。高校で所属している剣道部の“春休み合宿”とやらに駆り出されているがため、次男坊こと久蔵は しばしの不在だ。大好きな七郎次と少しでも一緒にいたい彼だとて、放課後の練習も勝手に早朝練習で相殺して来た我儘も、これにだけは通用させられなかったらしく。
『春からは後輩が入って来ての先達となる身。
だってのに、決まりごとや けじめを通せぬでどうするかっ。』
『〜〜〜。』
根は素直な次男坊ゆえ、先輩で部長の兵庫殿からビシィッと言われたその道理には、口下手なことも手伝って、反駁の余地がなかったらしい。
「あやつに お主以外に頭の上がらぬ存在が出来ようとはの。」
未成年でありながら、金髪白面のほっそりとした、いかにも儚げな美形でありながら。視線は強く、妙に威容をたたえた、存在感のある養い子。時として、軽々とあしらわれての やり込められてもいるせいだろか。その顛末をお話しした折は、ただ“愉快なことよの”と苦笑っておいでなだけだった御主様だが、
“………。”
そんな運びとなったすぐ翌日から、お早いお帰りになられたのは…もしやして。それがため、以前はそれが当たり前だった たったの独りで、勘兵衛の帰りをじっと待つ身となってしまう七郎次への、いくらかの気遣いもあるのかなと。思いはしたが訊いてまではいない。そうだったなら訊いてしまっては無粋だし、そうでないなら ただの思い上がりだからに他ならず。お優しい御主に比べ、自分は何と狡いことかと。傷つくのが怖くて訊けない尻腰のなさへ、こそり、溜息をつくばかり。まだまだ未熟な拙い腕で精一杯頑張った献立を、美味い美味いと平らげて下さる健啖家なところも。先日のアレは何と言ったか、また作ってはくれまいかと、ちゃんと覚えていて下さる気遣いも。自分なんぞには勿体ないことと思えてやまない、相変わらずな七郎次さんだったりするのである。
遅いめの夕餉が片付くと、御主が風呂に入っている間に洗い物を手早く片付け、リビングに晩酌の支度を整えて。上がって来た勘兵衛と入れ替わりで湯を浴びた七郎次が、ほこほこと温もってのほんのり染まった頬も嫋やかに戻って来。熱燗のお酌など務めつつ、寝るまでの間、他愛ないこと語らい合って過ごすのが、このところの日課となりつつある。双方ともにテレビにかじりつく性分ではなく、さりとて、すること観るものがなければ間が保(も)たないという身でもない。それぞれなりに話題に出来そうな蓄積は豊富だが、特に口数が多くなるということもなく。まだ少し寒の残る、春の夜陰の静けさの中。手慣れた様子で、だが丁寧に、指先そろえて酌をする七郎次のきれいな手つきを眺めたり。勘兵衛の頼もしくも大ぶりの手が、粋な掴まえようで手にした猪口を、口元へ運ぶ所作の男臭さへと、こそり惚れ惚れと見入ったり。そんなささやかなことへ向かい合う互いを感じるだけで、十分満たされている二人であり。
「今年の桜はずんと早いめに満開となってるようで。」
ここいらにも見ごたえのある並木や公園がありますんで、久蔵殿が合宿から帰って来たら、ヘイさんやゴロさんたちと一緒に花見に行こうかって話してたんですよね…などと、いかにも今時のことを話題に上らせた七郎次だったのへ。和んだ表情のまま聞き入っていた勘兵衛が、ふと、その手から猪口をテーブルへと戻して見せた。今宵はまださして過ごしてもおらず、急かさぬ程度の案配、空けてしまわれる端からすぐにも満たそうとしてのこと。こちらは背もたれのないスツールに腰掛け、徳利を手にしていた七郎次が、
「勘兵衛様?」
おやと怪訝に思って視線を上げれば。そんな彼へ向け、柔らかな視線を寄越す御主であり。七郎次としても、
「…。」
それへいちいち“何でしょうか”などと訊きはしない。徳利をテーブルへと戻し、スツールから立ち上がると、
―― もそっとお寄りとの仰せに従ってのこと
そのまま…少々遠慮がちな様子にて、勘兵衛が座すソファーへと座り直せば。
「…。」
黙したままこちらを見やる御主の視線が動かぬは、もっと間近へ来よと、でなければ話の続きはせぬということか。ちょっぴりためらいつつも腰だけ浮かし、お膝同士が触れ合うほどに身を寄せれば、
「あ…。」
そちらから少しほど身を起こす動作へ紛れさせ、伸ばされた双腕(かいな)が七郎次を捕まえる。雄々しく強い腕による迷いのない動きだが、そのくせ、臆病な小鳥を怯えさせぬよう、儚げな蝶々を潰してしまわぬようというような、やわらかな加減も備えてて。慣れから来る巧みさというよりは、相手への思いやりが…いやさ、想いの丈が染みていてこその発現発露だからだろうに。それを込めての接した相手はといえば、
「…っ。/////////」
含羞みというより怯えに近い反応で、まずはひくりとその身を震わすのが、勘兵衛にすれば ちと手痛い。勘兵衛への怯えではないのは判っている。信奉しての慕っておればこそ、敢えて言うなら、自分の側からは過分に触れてはならぬ馴れ合うてはならぬとしている彼の、常から自らを諌める戒めが過敏に働いての反応であり、
―― いかがした?
いえ…何でもありませぬ。////////
懐ろへの収まりもしっくりと馴染んだ肩や背へ。手のひら伏せての“離さぬ”と、意思を呈して逃げ場を封じ。囲うた腕にてくるみ込むよに、抱き寄せてしまえば、あとは…もはや呆気なく。反射に過ぎない抵抗は、あっと言う間に脆くも蕩ろけて。御主からの思し召しを待つ身、たどたどしい身じろぎさえ甘やかな仕草となるのが愛おしく。
“………だが。”
閨房以外での睦みや触れ合い、こちらは慎みから恥ずかしがる彼だったが、果たしてそれだけだろうかと。間近にまで引き寄せた愛しい温みを見下ろして、
「久蔵はおらぬぞ?」
「えと…。/////」
形のいい耳元で、わざとに低く囁けば。こちらからは却って覗けぬほどの、懐ろの中、ずんと深みに頬寄せたまま、ふいとお顔を逸らしたのが判る。
“やはりな…。”
聞かれては見られては困りましょうと、たまに口にする次男坊の名も、実は単なる煙幕に過ぎないと、そのくらいは既に見越してもいた。そして、
―― 本音は違うところにあるらしいということも。
妙な言いようになるが、閨房にある時は、抱きたいと求められての応じ、恭順を見せてという順番で体を開いている彼なのかも。だが、ならばそうでない場では? 閨房以外で抱きしめると、こちらの懐ろの中、どうしていいやらと真っ赤になって、身じろぎをするばかりになる。そんなところへ言葉で想いを紡いでやると、何でもない時ならば、機転が冴えての気の利いた言いようを即妙に返せる筈が、何とも困ったようなお顔をするのはどうしてか。
『私はただの囲われ者ですから。』
いつか、勘兵衛が妻を迎えたらその時は、姿を消さねばならぬ身だからと。そんな覚悟を勝手に固めている七郎次。だからという下敷きあっての、全ては“奉仕”のつもりでしていることだというのだろうか? だが、
“だったらどうして、躱せない?”
閨房以外での睦みなぞ、ふしだらで端(はし)たないからか? ならば気の利いた言いようで窘めればいい。こんなところで野暮ですよと、涼しい顔でさらりと言って、身を躱せばいいではないか。ただの寵童だったのの延長のようなものとし、囲われ者だなどと自分を貶めるような言いようをしているが。そんな覚悟とやらも、実のところは本意からのものじゃあないのではなかろうか。そうと決めつけて聞かぬ振りをするのは単なる傲慢で、ますますのこと七郎次を苦しめてはいないかと、そんな風にも思わないではない勘兵衛だったが。………ならばどうして、こんな顔をする彼なのか。
「〜〜〜。/////////」
恥ずかしくてのことだろう、ささやかな抵抗か、その身を微かにこわばらせてこそいるけれど。それでも、こちらに身を寄せたままじっとして、安んじて凭れかかってさえいるようだのに。だのに…真っ赤になっての困り顔、口を噤んでの苦しそうにする彼なのはどうしてか。叩かれ強くて気丈な筈の七郎次が、他でもない御主である自分の何を恐れて、何に戸惑って、そんなお顔をするのだろうか。
「…七郎次。」
湯上がりだったのでと結っていなかった金絲を懐ろに見下ろし、さらさらと手に馴染みのいいすべらかな髪、節の立った武骨な指に掬って梳きながら。自惚れと思い知らされてもいいからと、型通りの恭順の辞しか聞けなくともいいからと、今宵もまた、無粋・不器用を承知の上で、本人へと訊いてみる勘兵衛で。
―― 時が来れば身を引くなどと。
まさかに本気で言うておるのではないのだろう?
◇ ◇ ◇
どうしてもどうしても言えない、言葉という形にしてはいけない一言がある。真実本当、間違いなくの誠実な想いだが、それと同時に叶うはずのない望み。むしろ果たされてはならぬものだということもまた、重々判っているものだから。言葉にはせず、戒めという名の枷として、胸の奥底へ封じ続けているのだけれど。
「…。」
もしやして。何かしら匂わす言いようを含ませたことがあったかも。我知らず 慕わしい眼差しをしていたことがあったかも。そんな仄かな綻びからでも、あっさり零れようほどに、想いは育って隠しようがなく。それでなくとも 懐ろの尋深い御主のことだから、わざわざ あからさまに示さずとも、もう既にその心掌へ拾い上げておいでかも知れない。招かれたそのまま、そおと掻い込まれた格好の懐ろの広さ。頬を寄せている胸板の堅さと雄々しさ。こちらを覗き込まれたのか、肩口から濃色の髪がこぼれて来ていて。それへ触れんとしたこちらの手を、大きな手が捕まえてしまい。精悍なお顔の口元へまで引き上げると、指先へと触れるだけの口づけ落として下さって。こんなにも温かいのに、こんなにもお優しいのに。このまま浸ってしまえれば、どんなにか至福かと思う端から…どうしようもないほど胸が震えて切なくなって。その痛さに苛(さいな)まれ、こうしているのがつらくなる。
「…。」
答えをお待ちか、こちらをずっと見つめておいでの勘兵衛様から、逃げるように視線を逸らした。我がお強くてのことじゃない、こちらの嘘を見通してのことだとしたら。それでと、ホントのところを申せとお望みなのならば。
―― いっそ支配されてしまおうか。
それがお望みなら居残りましょうと、あなたの言であれば何にだって従うと、我を捨て去ってしまえたら。そんなまで依存心ばかりな人間は、お好きではない御主だということも知っている。だから、だったらいっそと思わないでもないのだけれど、
―― 嫌われて、疎まれてしまうのは………それだけは…。
嫌悪や蔑(さげす)みがこの御主のお顔を歪めるところを見たくはなくて。ああ、それよりも、哀しんでしまわれるかもしれないな。何と浅はかな子だろうかと、ご両親と共に育ててやったのに、その甲斐がなかったと哀しまれてしまわれるかも。
「…。」
そうと思うと居たたまれなくなり、さまよわせた視線の先、壁に掛けられた時計が見えた。ああ、もう日付が変わるのだと、こんな折だというのに そんなことをぼんやりと拾った意識が、七郎次の中、別な何かを揺り起こす。
「勘兵衛様。」
「うむ。」
「わたしが欲しいものは、勘兵衛様だけでございます。」
「…。」
「そのお心が欲しい。他には何も要りません。
だから…ずっとお傍に置いて下さいませ。
いつの日にか、我儘にも我を張って、出てゆくなどと言い出しても、
戯れ言と思うての取り合うことなくいて下さいませ。」
喉の奥が、胸の底が、焼けて爛れて腐れてしまいそうな想いがした。今の勘兵衛様が最も聞きたい言だろと、それと選んで口にした小賢しさ。こうまで慈しんで下さる御主へ、何と恥知らずなことを仕掛けるか。それを思うと目眩いがし、声は震えたし、表情も定まらぬままだ。ただ含羞んでいるだけに見えるかしら。それとも…あまりに悲痛さが過ぎてのこと、いかにも真摯な態度のように、見えて聞こえたことだろか。思わぬ効果が生じたかもと、七郎次が気づいたのと同じ間合いで、
「…七郎次。」
すぐの間近から、感に堪えたようなお声が聞こえた。そろりと顔を上げたれば、勘兵衛様がその深色の目許をやわらかく細めておいで。しようのない奴だと言いたげな、困ったようなお顔じゃあないことが。失望混じりのお顔ではないことが、だが。ああもっと罪が深くなるのだと、その報いの棘を早くも七郎次へと自覚させる。
「やっと言うてくれおったな。」
だが、そんなもので良いのか。儂はとうにお主のものだというのにと。嬉しそうになさっておいでであればあるほど、自分の醜さや至らなさが痛い。聡明な方だ、すぐにもお気づきになるに違いない。落胆させるのみならず、余計な恥までかかせた罪深さ、胸へと重く掻き抱きながら、苦々しい想いを噛みしめておれば。
「…?」
ふと。テーブルの上へ手を伸ばされた勘兵衛様で。片手を外してしまうことで、愛しい情人、取り落とさぬようにとでも思われたものか。背へと残された側の腕、キュッと力が籠もった感触の方が、七郎次にはたいそう切なかったのだけれど。
【 ……から始まります。どうぞご期待下さい。】
思わぬ間合いで…何かしらの文言の中途からだろ、滑舌のいい女性の声がしたのが聞こえて来た。えっと思わずそちらを見やれば、壁に据えられたテレビがついており、御主がリモコンを手にされたらしいと判ったのだが。
“テレビ?”
何でまた、こんな時間に? 聞きたいことを確かめられて、さてと気分を一新なされたか。明日のお天気でも気になったのだろか。ああでも、これでお気づきになる。データ情報の画面には今現在の時刻もちゃんと出ていよう、明日ではなくの“今日のお天気”という表示になってもいようから。この自分がどんな“おいた”をしたのかに、早速気がつかれるに違いない。
【♪♪♪〜♪♪】
スタッフの名前が綴られたエンドロールが、延々と下から上へと流れゆき。軽やかな音楽と共に、春からの新番組案内だったのだろう画面がすうっとフェードアウトしたその直後。入れ替わるよに現れたのは、地味な背広姿の男性キャスターで。見慣れたセットのデスク前、頭だけを軽く下げての目礼をしてからという、定番のご挨拶のあと、口にしたのが、
【こんばんわ。日付が変わりまして4月1日、0時のニュースをお伝えします。】
“………………………………え?”
ガソリンにかけられていた暫定税率がどうのこうのと、キャスターは全国的に大切なことを語っているのだが。それどころじゃあない人が約一名、あなたのお心だけが欲しいと強請(ねだ)ったところの、愛しいそのお人の懐ろで…体よく固まっていたりして。
「いかがした、七郎次。」
呆然自失を絵に描いたように固まって、と。それはやわらかなお声で案じて下さる勘兵衛様だが、
「…嘘だ。」
「そういえば、今日はエイプリル・フールとかいう日だの。」
そうそう、嘘にからんだ日には違いないと、意を合わせて下さったようなお言いようこそ白々しい。表情を失い、青玻璃の瞳を見開いて、大いに呆気に取られていた青年が。軽く顎を引くようにして、すぐの間近にいるこちらを見下ろす御主へと、その視線をそりゃあ勢いよく戻しての それから。
「これって どういうことですか、そんな…っ。」
余程のこと激高したのだろう。ソファーの座面へ膝立ちになっての、畏れ多くも見下ろした格好になって。十分過ぎるほどの間近から、更に詰め寄りにじり寄り。がっしと掴んだ肩を揺すぶりまでしてしまった、そんな御主の頭の向こう。壁に掛けてある時計は間違いなく、日付を区切る“0時”をもっと過ごした時刻を示していたし。サイドボードに置かれた写真立ての端の、お飾りのような時計の針も。今見やった画面の下、テレビ台に収められたDVDプレイヤーのデジタル表示も。数分どころじゃあない、既に三十分は経っている数値を表示しているというのに。なのにどうして、たった今、日付けが変わったばかりだなんて?
「いやなに。お主が風呂に入っておった間に、時計の電池を交換しただけだが。」
「はい?」
「ちぃと手持ち無沙汰だったものだから。」
「はあ?」
日頃は縦のものを横にもしないお人が何を言い出すものなやら。…まま、その件に関しては、お仕事を頼まないシチさんにも問題があるっちゃあるのだが、そっちの話は今はさておくとして。(まったくだ) ここまで度を越して激高したり唖然としたり、普段はそうそう見られやしなかろお顔を、次々披露してくれている年若い情人へ。どんなお顔になっても可愛いものよと、妙なところへご満悦になったらしき勘兵衛様、
「ところが。壁から降ろして蓋を外したはよかったが、電池の予備がどこにあるのかがまずは判らず。やっと見つけて入れ替えるまでに、いくらか時間を要してしまったらしくてな。」
しゃあしゃあと言いたい放題をお続けになられ、
「そうやって遅れた分の、針を合わせ直すのが、大雑把が過ぎて進め過ぎてしもうたようだの。」
慣れぬことはするものじゃあないと。澄ましたお顔で、いかにも感慨深げに うんうん頷きまでする白々しさよ。そして、そのような御主のお言いよう、
「…。」
理屈としての理解は出来たが、それでも何だか、大きな不整合があるよな気がしてならない七郎次だったりするのも致し方がないというもので。他の時計やDVDプレイヤーの表示まで進んでいる辺り、今ご本人が仰せになったような対処こそは事実であろうが…本旨の部分は立派な“嘘”に違いなく。だが、
“わたしは…自分はあくまでも突発的に思いついたのに。”
この何日かという二人きりの会話の中、御主から“思うところを素直に言うてはくれぬか”と、優しくながらも迫られており。今宵だけは…日付さえ越えたなら何を言っても“嘘だった”と後から引っ繰り返せる、そんな特別な晩なのだからと すがったようなもの。だってのに、勘兵衛はまるで前もってそこまで見越していたかのように、ここまで周到な準備をしていたということか? 確かにここ数日ほど、同じような時間帯に晩酌と運んでの、似たような会話を性懲りもなく繰り返していはしたけれど。もう酔ってしまわれたのですかと難なくいなせておれたもの、今宵に限ってはそうは運ばなかったその上で、
“今宵に限って…。”
自覚してからのずっとずっと、つき続けていた嘘がある。真実本当、間違いなくの誠実な想いだけれど、叶うはずのない望み。いやさ、果たされてはならぬもの。だから、言葉という形にしてはいけないと。言ってはいけないこととして、胸の奥底へ封じ続けていようと決めていた、ホントの気持ち。ああ、でも。嘘をついてもいい日なら、例えば…言ってはならぬ真実を口にしても、後から“嘘だった”と言い抜けられるかも知れないと、
―― 何から誘導されて、そうと思った自分だったのか?
「…………………………あ。」
言わないことで蓋をして、在るのに無いと嘘ついて。自分へも嘘つきになりかけていたことに耐えかねた彼を、特別な日だからと絆(ほだ)すように誘ったもの。本当はずっとお側に居たいと、手放すことなくいてほしいと、そんな欲心を吐き出す切っ掛けをくれたもの。それって、
―― 視野を掠めた壁時計の針じゃあなかっただろかと
思い出したと同時に、全ての答えがどっと七郎次へと導かれてく。実はまだ日付は替わっていなかったのに錯覚させたのは? 会話の節目がそんな絶妙な間合いに掛かるよう、流れを制御出来たのは? 誰がそんなことを仕掛けたか。誰がそうと運べたか。答えは明白だったりし。
「…あ。」
膝立ちになっていたものが、へたりと座り込んでしまったことで、ああやっと答えに辿り着いたかと見越しておれば、
「…ですがっ。先程申し上げましたのは、嘘として吐こうと構えていたこと、」
だからやはり、心にもない虚言に過ぎないと。悪あがきにしか聞こえぬ言いようを、続けかかった声を遮り、
「思ってもないことがそうそう口を衝いて出はすまい。」
「…っ。」
ぴしゃりと言ってやって、これで全てにコンプリート。あああ、そこまでもお見通しだっただなんてと、今度こそ ぐうの音も出ずというお顔になったところを。再び そぉっとくるみ込んでの覗き込む。あくまでも優しい包囲網にてと構えたものの、たまにはこうして完膚なきまで追い詰めてやらねばいけない子。だってこの子は、他でもない“自分自身”を大切にしない。好きなのに無理から嫌いと言ってのけ、大好きな人から嫌われてもいいと振る舞って。自分にだけ傷を受けることで、好きな人を無傷で守ろうとするような。そんな痛みを厭わない、哀しい寂しい性分をした子だと、判ったからには…放ってもおけない。彼をこそ大事と思う勘兵衛にしてみれば、そんな哀しい選択をされては堪ったものじゃあない。とはいえ、
『ねえ、そんなのは結局、君が大好きな人にとっても辛いことなんだよ』
などと。直截に言ったところで、聞きはしても聞き容れはせぬだろうほど、あれやこれやと蓄積を持つ年頃になっており。だからと構えた策だった…という訳で。
―― もう嘘をついてもかまわぬぞ?
〜〜〜。////////
エイプリルフールは“罪のない嘘をついてもいい日”です。人の心をもてあそんだり試したり、それへと連なりそうな つまらない揚げ足取りをしたりは、どうかお控えになりますように。でないと、
「勘兵衛様なんて、嫌いです。」
「…っ☆」
今度こそは嘘ついてもいい日なんだからとの前提があっても、それでも手痛いだろうお言いよう、面と向かってされてしまいかねませんので、どうか皆様もご用心のほどを。
〜Fine〜 08.3.24.〜3.30.
*ちなみに、最初考えたタイトルは『三月三十一日の睦言』でした。
え〜っと。
当初はもうちょっとお軽い仕立てにするつもりだったです。
『大好きですよ、ずっとずっと可愛がって下さいませねvv』
珍しくもそんな直截なお言いようをしたシチさんだったのへ、
素直に喜んだ勘兵衛様だったけど、
だって4月1日ですし〜vvと、
騙されましたね、してやったりというお顔をしたところが、
『いや、まだ 31日だし。』
おさまが見事にやり返すという。
そういうお馬鹿なオチというかネタというかを思いついたのでと
軽〜い気持ちで書き始めたのですが。
気がついたら………なんかごちゃごちゃと理屈ばっかり連ねてまして。
その結果、
途中までを無駄にシリアスな展開にしてちゃいました、すいませんです。
(その割に、オチはつけたかったらしいです。)
*ウチの小劇場の勘兵衛様は、何しろ良いトコの坊ンなので、
寛容そうに見せといて 実は我儘です。
そしてそして…今更な話ですが、
七郎次さんをとことん溺愛しておいでです。
久蔵さんよりも小さい頃から引き取っての以降、
そりゃあ健気で一途な彼が、
慎ましやかにしていても隠し切れぬほど、
どんどん綺麗になってくの、
間近に見て来たせいかもしれません。(おいおい)
どのくらい好きかというと、
先々で どっか他所の誰ぞに嫁がせるくらいなら、
久蔵さんの嫁にして ずっと傍らに置いとこうと、
臆面もなくの本気で思ってらっさるくらいに大好きですvv
七「…何だか色々間違ってませんか?」
勘「そうかの?」
久「(嫁vv) ///////」
男のシチさんが嫁ぐとか、
久蔵殿の嫁は自分の嫁も同然みたいな把握とか?(笑)
平生は聡明な御方なんですが、
コトがシチさんに絡むと…まあまあこんなもんでしょう。(こらこら)
めるふぉvv

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